- 中村タイルのこと
『ありがとう!』と言われた 【タイル職人】という しごと (問屋編)
この社会は多様性で成り立っています。
私がタイル業界に入った30年程前には約5万人もの【タイル職人】が働いていました。
がしかし、現在では1万6千万人程となり約7割の職人さんたちが離職してしまいました。
この物語は、時の波に消えた多くの仲間たちのなかで、【残ることを許されたモノの使命】だと思い書いております。
とはいえ、私は【タイル職人】ではありません(汗、、
最初に断っておきますが、このブログには素敵なエピソードも、心が震える瞬間もございません。。。
ただ【真実のみ】を多少脚色して書いております。
こんにちは、ブログという名の迷路を彷徨っている コーゾーです。
前回のブログを読んでいただいた あなた ホントにありがとうございます!!感謝
まだ読んでいない あなた ここにリンク張っておきますのでよろしければこちらからどうぞ
nakamuratile.hatenablog.com
前回は、とりあえず会社を辞めずに踏みとどまるシーンで力尽きました。
今回はその続きから書いていきます。
タイルの営業職で入社し、翌日から倉庫番として働きだした私にも、春が過ぎ夏を越え秋になる頃には、ようやく営業という しごと に就くことが出来ました。
私が配属された部署は【大阪営業所】というタイルの材料を、タイルを貼る工事店(職人さん)に販売する、問屋と言われる仲卸業でした。
相変わらず朝は6時半に出社します。
営業といっても午前中はトラックに満タンのタイルを積んで、お客さんの現場に配達に廻ります。
当時は毎日がワンダーランドで、奈良・神戸・三田・川西の郊外住宅や、大阪市内のビルや高層マンション、ミナミや北新地などの高級クラブへとタイルを届けに走り廻ります。
そこでは、私が届けるタイルを待ってくれている職人さん達と、いろんな会話をしながらタイルを貼る作業を見ていました。
モノトーンだった壁や床に、鮮やかな色がついていく光景は、仕上げ職人さんならではの達成感なのではないでしょうか。
午前中の配達が終わると午後からは営業に廻ります。
私が最初に担当したエリアは、芸人ダウンタウンを輩出したことで有名な兵庫県尼崎市でした。
今では【豚の星】という、こってりとんこつ系ではNO.1と称される(自分比)ラーメン屋があることで認知されている都市だと思います。。
当時半人前だった私は、営業車であるトラックの隣に、もうすぐ60才で定年を迎える女性営業の蟻芝さんを載せて、お客様であるタイル工事店を廻ります。(所謂ルート営業というやつです)
バブルが弾けたとはいえ、当時の建築業界はまだ忙しく、ほとんどのタイル工事店さんの店主は不在で、事務所には店番の奥様(妙齢)しかおりません。
そこで私がみた営業活動とは・・・
『奥さん、今日の晩御飯きまった?わたし何にしようかしら』。。
みたいな会話が延々と続く地獄絵図のような展開でした。
ランチェスターやドラッカーはおろか、マーケティングもセールストークもありませんでした(笑
嘘みたいなハナシですが、この会話の内容で、3千万円程の売上が毎月上がっておりました。(尼崎だけで バブルですね!)
余談ですが、私が毎回 魂を込めて書いている、このブログは将来どれぐらいのお客様に繋がるのか。。想像してみるだけで恐怖です。
ただ、そんな状態も長くは続きません。
バブル崩壊の波は確実にタイル業界にも浸食してまいります。
一緒に同行していた蟻芝さんも無事定年を迎え、そのまま尼崎のお客様を引き継ぐことになり、ようやく自分ひとりで行動出来ることが嬉しくて、それまでよりも多くお客様を廻るようになります。
入社して2年目の春、阪神大震災が関西を襲います!!
幸い我が社では建物にも大きな被害はなかったのですが、西宮に住む被災した社員にバイクで水を届けに行ったときに、阪神高速道路が横倒しになっているのを間近でみて、震災の恐ろしさを改めて感じました。
関西では震災の復興需要が建築業界に大きな影響を与えます。
バブル崩壊で落ち込み始めた建築需要が、震災復旧工事として大きなうねりとなって動き始め、タイル業も例外ではなく、その恩恵にあずかります。
二十歳そこそこの若者(私)が一生懸命に動く姿に(自分で言います)タイル工事店の店主や奥様方にも好評で、売上は鰻登りで上がっていきました。
前任者の成績を越えることで、自分が評価されることが素直に嬉しかったことを記憶しています。
更なる売上拡大を狙って、私は当時の尼崎エリアで規模が一番大きなタイル屋さんのシェアを取りに動きます。
夜討ち朝駆けで日参し、まずはそこで働くタイル職人さんとの関係を構築し情報を集めます。
店主である社長が抱える問題に、信頼出来る番頭(工事担当者)がいないことを聞き出し、その役割を私が買って出ることを提案します。
小規模な工事の段取りや打ち合わせを任されるようになり、やがては材料を販売するだけではなく工事や職人さんの段取りもほとんど任されるようになります。
30%程度だった売上シェアは、一年を待たずに90%を超えほぼ当社独占となります。
私の営業成績は3年目で社内トップセースルになり(当時は営業マンが30人ぐらい中ですが。。)そのころはまだ普及していなかった携帯電話(セルラー)を貸与されました。嬉しかったです!
益々しごとを頑張りつづけ、月商が6千万を超えて社内の記録を塗り替えた頃、携帯電話の請求額も月に10万を超えていましたw(6秒10円の時代でした)
調子に乗りやすい私はその時、既に有頂天になっていて、すべては思い通りで自分中心に廻っているな、結構チョロいなって思っておりました。
当たり前ですが、そんな状況は長くは続きません!
世間を揺るがす大事件が起こります
【地下鉄サリン事件】当時の日本ではテロなど起こるはずがないと誰もが疑わなかった時代に起きた大惨事でした。
その裏で、我が社にも大惨事が起こります。
当時、会社で売上NO1と成長していた私のお客様である尼崎のタイル工事店さんの店主が失踪いたします。
その後、ひと月も待たずに倒産してしまいました。
問屋と言われる仲卸業はお客様との取引は信用取引で売掛債権を抱えての商売になります。
当社の不良債権は5千5百万となり会社設立以降、最大の事故となってしましました。(この記録は現在もまだ誰にも破られておりません 汗)
私は当時の上司と共に債権回収へと奔走します。
この時に会社の仕組みや法律など滅茶苦茶勉強しました。
人間は失敗から多くのことを学ぶのだと知りました。
今思えば、この時 支払った授業料は、自分の成長に大きな影響を与えてくれていると思いますが、会社には甚大な被害を与えたままで回収の成果は上げれませんでした。
大きな不良債権と売上の柱を失った私は意気消沈し、しごとへのやる気も、人を信用するということも、同時に失っていきます。
ただ、まだこの時は序章に過ぎなかったということを、その時の私には知る由もありませんでした。
つづけます!